2023.02.15絵をかくこと

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あいまいもこ・だれかのめがね――実物・記憶・細部/写真・記憶・感情

僕が何に興味があって何を描いているのかというと、きっとそれは「記憶」ということになるのだろうと思います。というよりも、描くことによって記憶を作っているといった方が正確かもしれません。僕がふだんものを描く時にはモチーフとなる対象それ自体をというよりも、それを写した写真をもとにして描くことが多いのですが、それは対象の形態を把握することが目的ではありません。むしろそれは副次的なものです。僕が写真という媒体に期待しているのは遠い過去の記憶を喚起することです。僕の中では写真と記憶というのは切っても切れない関係にあり、同時に絵画と記憶というものの間にも同じような関係が成り立っています。僕にとって写真というのは記憶と絵画をつなぐ媒体です。描くという行為と思いだすという行為の間には何かしらの類似性があるように感じています。それは描かれる対象を目の前にして描くときでも変わりありません。「見ながら描く」ということはより細かく自分の実感に則していえば、「見て、覚えていることを描く」ということの繰り返しという気がします。キャンバスを目の前にして、見る・描くということを繰り返すことも僕にとっては結局のところは記憶を描いていることなのです。僕にとって写真を見ながら描くということと実物を見ながら描くこととの違いは描かれる記憶がより時間的に近くの鮮明な記憶なのか、消えつつある(あるいは消えてしまったと思っていた)遠い昔の記憶なのか、という違いなのだと思います。近くの記憶は常に更新され続けていて、その一部が崩壊しつつ同時に新たなものが生まれるという過程を経て、ある種の時間の感覚を生み出します。特に遠くの記憶と比べると細部の情報が圧倒的に充実しています。その場合、描かれるのは記憶というよりも時間であり、細部であるということになるのかもしれません。一方で写真が写しているのは過去の一瞬です。そしてその対象に関する記憶は時間とともに基本的にはすべて失われていきます。どんなに心動かされるような出来事や場面であっても、ずっと長い時間が経つとどんどん忘れて行ってしまいます。それはもちろん、僕の場合には、という話ですはありますが。そういう失われた記憶の海から全く偶然に一枚の写真をきっかけにして、一瞬のうちに遠い過去にある一時点を思い出すことがあります。そういう風にして思い出された記憶が僕のいう遠い記憶です。先に書いた、近い記憶と比べると対象の実在感や細部の情報は少なく臨場感も鮮明さもありませんが、その記憶は僕の感情や感覚と強く結びついているように感じます。それは非常にあいまいで漠然としていて、言語化するのが難しいのですが、いうなれば、ある種の雑感のようなものです。絵を描くときにはその雑感を捕まえようとしています。それに僕は強く惹かれます。それは僕の記憶に関する能力とも関係しているかもしれません。僕はいろいろな出来事をすぐに忘れてしまいます。幼少時代の記憶はもちろん、大学生時代の記憶もひどくぼんやりとしたものです。本当にすぐに物事を忘れていってしまいます。いま、僕が思い出せる記憶というのは、きっとほとんどすべて写真という媒体を通して再構築されたものといっても過言ではないと思います。不思議なのは再構築された記憶、捏造されているかもしれない記憶といってしまってもよいのかもしれませんが、そういうものは自分の中にしっかりと根付いていると自分自身が感じているということです。他の人が記憶というものについてどういう風に感じているのかはわかりませんが、少なくとも僕にとって実際に起こったことをありのままに記憶するということは、不可能に近いことのように感じます。僕にとって記憶は失われていくものです。一生忘れられない風景や忘れられない出来事のようなものは僕には一つもなくて、すべての記憶は失われる可能性があります。本当に何もかもです。そして残っているのは僕は自分で頭の中で作り上げた記憶のようなものだと僕は感じています。それは僕が作りあげた物語といってもいいかもしれません。絵を描くということは、僕が自分の頭の中にそういう記憶を作っていく行為なのかもしれないとさえ感じます。それはもしかしたら実際に起こった出来事や実際にあった風景とはずいぶん異なっているかもしれないのですが、そういう風に自分の中で組みなおしたものに支えられるようにして僕は生きているのかもしれません。僕はそれをすごく怖いことだと思いながら絵を描いています。

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