
さて、庭文庫での展示『絵と画のあいだ』が終わってから、あっという間に一週間が経ったみたいだ。
展示期間中、在廊しながら描いていた漫画『うみのいえ』はおとといくらいかな? に描き終わって、昨日一日かけて色味を調整したり、レイアウトの修正をしたりというこまごまとした作業をして、何とか本の形になった。何だか、これでやっと、展示が終わったという感じがしてきた。この1か月のことを振り返りながら、また、何か文章を書きたいなと思って、何度か書き始めてみたのだけれど、やっぱりあの漫画が完成しないうちは、何だかまだ展示が終わっていない気がしてしまって、少し書き進めて、やめて、また書き始めてはやめてということを何度か繰り返した。
漫画が完成したので、やっと、この文章とじっくりと向き合えるような気がする。とにかく、最近が絵を描くことばかりしていて、文章を書いていなかったので、なんだか、まだ、文章を書くことがしっくりこないし、たぶん思考の方法というのか、リズムというのか、流れている時間の速度に身体が馴染んでいないような気がする。でも、これもしばらく書き続けていれば、そのうちにだんだん乗れるようになるはずだ。小さなタイプミスとか、変換のミスが、まだまだ気になって、文章の流れが、とぎれとぎれになってしまうけれど、そういうものは後でいくらでも直せるのだから、とにかく、文章を先へ先へと進めていくべきだろうと思う。
それは文章という形式の良いところの1つに僕には思える。パソコンで文章を書くことは、デジタルで絵を描くことと同じだ。いくらでも、まったくなかったことにできるし、一度消して、もう一度全く新しく、最初と同じ状態で書き直すことができる。つまりこれがデジタルとアナログのいちばん大きな違いなんだろうと思う。なかったことにする。少なくとも、最終的な物の表面には残らない。僕という人間の中にだけ、残る痕跡。何を書いているのかさっそく分からなくなってきた。
デジタルとアナログ、それは確かに今回の僕の展示の1つのテーマではあった。デジタルとアナログと、そのあいだ、そういうことは、今回僕が展示をするにあたって確かに考えたし、そういうことが展示会場を構成するための1つの指標であったことは確かだ。会場でお客さんとも何回か、そんな話をした。けど、本当は、僕にはわかっていた。そういう話に僕はあまり興味がないということを、僕自身、分かっていた。アナログとデジタルを、それぞれ絵と画という二つの漢字に当てはめて、その二つの違いとか、その間を行き来する身体というもの云々・・・・というような話は、何だか、もう色んな人が色んなところで言っていることだろうし、正直あんましよくわからない話のような気がする。パソコンで書く文章とノートに手で書く文章とのあいだに違いがあるかというと、僕にはよくわからない。
でも、デジタルとアナログ、絵と画というキーワードは会場を構成するための言葉としてはすごく機能していたような気がする。でもそこにそれ以上の内容はあまりないような気がしていて、僕は絵と画という風に分けたけれど、結局のところその二つのあいだに大した差なんて本当はないんじゃないかという気もする。だから、僕の本当の関心というのか、大事だと思うテーマは「あいだ」という言葉の方だ。絵と画のあいだ、絵と絵のあいだ、この言葉はアニメーションを描いている時に頭の中にふっと浮かんできた言葉だ。絵と絵のあいだ。それはアニメーションという、表現形式を言い表すぴったりの言葉のように思える。2025.08.04
昨日、なんだか、文章を書く流れみたいなものをつかんだ気がしたのだけれど、色々な予定があって中断されてしまった。それでも少しずつ書くことが大事だと思うので、今日も少し書いてみることにする。昨日はどこまで書いたんだっけ。展示が終わった時にはいろんなことを書いてみたい気がしたのだけれど、一週間がたって、何だか、書き時、のようなものを逃した感がある。少し読みかえしてみる。そうそう、僕の興味は「絵と画」よりもむしろ「あいだ」という言葉の方にあるという話だった。アニメ―ションの本質は絵と絵のあいだの何も描かれていない、見る人が想像力で補う部分にあるのではないかという気がする。アニメーションにおいて、描かれているものと、その間にある描かれていないものとを比べたら、間にあるものの方が多いのだと思う。その描かれていない部分をいかに想像させるのかというのがアニメーションの技術なのだろう。僕はこれまで、アクリル画や油彩画をたくさん描いてきたけれど、その無数の絵を一つひとつ独立した存在として展示したり販売することに違和感を感じてきた。どうも、一枚一枚について、これはよい、悪いみたいなことってないんじゃないかという気がする。だからつまり、この絵はいくらでこの絵はいくら、みたいなことは何だかおかしい気がしていて、でも少しでもやったことをお金にかえなきゃなぁ、売れたらいいなぁ、みたいな気持ちもあるので、便宜的に値段をつけている訳だけれど……。それらは一枚一枚として、独立した存在ではなくて、それぞれが関連し合っているものだ。その連続のうちの一部を切り出して、そこに価値を見出すことができるのかどうか、僕にはあんまりよく分からない。でも絵を買ってもらえたら嬉しい。それは確か。2年前、庭文庫でやった「暮らしの実景」という展示、本の時にもそういうことは思っていた。あの一連の創作も今となってはアニメーション的だったという気がしている。確か、あの本のどこかで、たくさんの絵が並ぶことで浮かび上がってくる、雰囲気を作りたいみたいなことを書いた部分があったような気がする。あの本を作った時から、僕はそういうものに惹かれていたのだろうと思う。というよりも僕の能力の偏り的に、そういうやり方でしか、物を作ることができないのだと思う。つまり、僕は物事を論理的に秩序付けたり、整理したりということが苦手だということ。村上春樹が確か「職業としての小説家」の中で書いていたことを僕はここで思い出す。正確な引用はできないけれど、小説はあまり頭の良い人には書くことができないという話だ。小説を書くことは、ある事象を、それは例えばあれがこうするようなものだ、というようなそういう遠回りな方法で世界を言い表していくことなんだと、確かそんなようなことを言っていた。僕はものを説明したり、クリアに的確に書き表すこと、物事とを順序だてて分かりやすく正確に書くことができないから、やっぱり僕もそういう風に、自分が抱えていることをそういう方法で表現するしかない。僕がやっていることは万事が万事そうだと思う。僕が考えていること、そういう言い方がいいのか分からない、考えているというほど考えている訳ではなくて、でも僕の抱えているものを雑多な絵や文章として形にするということ、その形の中にはきっと、僕が無意識的に秩序づけているものがあるのだろうなと思う。今回の展示で思ったことはそんなようなことだ。僕には言葉にすることが出来ない、というか、そういう必要性をあんまり強く感じない。色々なもの、雑感とでもいうようなものを、絵とか文章か色々な人が読み取ってくれ、文章にしてくれる。本にするとか、展示をするというのは、僕にとってはそういう機会で、それが、僕にとってはとても意味があることだと思う。ここ数カ月、文章を書くことから離れていたのは、そういうことなんだよな。僕が書くよりも、誰かに書いてもらった方がいい。だから、今回の展示、色々な人が色々な感想というのか、批評というのか、を書いてくれて、僕としてはとてもありがたかった。特に、やっぱり、雄太さんが書いてくれた一連の文章。それは「暮らしの実景」「色彩の海に浮かぶ島」「未明の土地・人々」「うみのいえ」とこれまでに僕が色々なところで発表してきた作品たちを横断するような形で書いてくれていたのが印象的だった。それは、なんだかすごく「あいだ」みたいなものを見てくれているような気がした。そういう風に、一枚の絵とか、一つの展覧会単位での作品ではなく、僕という人間が、どんな風に変化したり、テーマを発展させているのか、ということをあれだけ丁寧に見てくれる人がいるのは、とてもありがたいことだと思う。なんだか、今回、というか最近の傾向なのだけれど、どんどん文章を書くことを難しいと感じ始めている。特に、何かに何かを象徴させたり、物語として登場人物たちに何かを託しながら書く文章や、日々あった事を積み重ねていく文章ではなくて、自分の考えていることをそのまま文章にしていくような文章を難しく感じる。いま書こうとしているものがまさにそれだ。正直、あまり書きたくないのだけれど、書きたくないというよりも、さっきも書いたけれど、それは僕が苦手なことだから、書きたくないというよりも書けない、苦手なことだから億劫だという気持ち。でも、今回の展示を通して、色んな人に色々なコメントをもらったので、それがなんだか、僕にとっては大変な宿題をもらってしまったという感覚だ。宿題は面倒くさいけれど、でもやっぱり、僕自身それを何らかの文章にしておきたいなという気持ちがあるので、こうやって書いてみる。何年か経って、見返してみれば、この文章に書かれていることをもう少し上手に言葉にすることもできるかもしれない。そう。そもそも、今回の展示「絵と画のあいだ」という展示のなかで、一番中心的というのか、根源というのか、そういう作品はやっぱりアニメーション作品「森の底でまた会いましょう」だろうと思う。そして、その作品をさらにさかのぼっていくと、僕が19歳の時に描いた「森の奥底で」という短い物語だ。展示期間中、その文章のことを高校生のころに書いた文章だと色々な人に言っていたのだけれど、それは勘違いで、僕が浪人している時に書いたものだった。高校生の頃に書いていたのはまた別の小説だった。その文章はさすがにいま手元にないけれど、もしかしたら、どこかの段ボールの奥底で眠っているかもしれない。19歳の頃に書いた文章を、33歳の僕がアニメーション化したのが、「森の底でまた会いましょう」という作品だ。この二つの作品のあいだには14年という時間の流れがある。この時間的な隔たりというのが僕には何か大きな意味があると思っている。それは確かに自分が書いた文章だけれども、ある意味で、客観的にその文章と向き合うのに14年という時間を必要としたことの意味について考える。僕はかなり、色々な作品を寝かせる癖がある。この文章もたぶんそういうものだ。この文章に限らず、たぶん僕が作るものというのはすべてそういう性質を持っていると思う。今回、在廊中に書いていた「うみのいえ」という物語もずいぶん前から頭の中にあった物語だ。物語の全貌が頭の中で思い描けていたわけではないけれど、少なくとも、朝目覚めると家の周りが海で囲まれているという出発点だけは明確に頭の中にあった。そのはじまりのイメージだけあれば、その先はどうにでもかけるということが分かっている、そういうアイデアが僕には無数にある。「うみのいえ」はそのうちの1つだった。そういうアイデアだけのものもあるし、下書きだけできていて、あと清書するだけの状態の漫画とか、絵本とか、書きかけのまま中断されている小説とか、そういうものが僕には無数にあって、それがいつ作品として形を持つのか、は僕にもよくわからない。どういうきっかけでそれらが形を持つのか僕には良く分からない。今回、なんで僕は「うみのいえ」を形にするに至ったのか、よくわからない。でもたぶんそれは割と実際的な考えというのか、計算の結果なような気がする。庭文庫で在廊して過ごす時間は毎日在廊したとして、13時から18時の5時間4日×4週間でたぶん大体80時間。まぁざっくりとそのうちの半分くらいを制作に使えるとすると、40時間が制作に掛けられる時間だ。そして、庭文庫という場所。庭文庫で40時間で何かを作るならなにかなぁ、とそんなことを考えながら、制作のアイデアメモを見た時に何となく、これならできるかもしれないなぁと選んだのが「うみのいえ」だった。でも、何だかこのあたりの経緯はよくわからない。展示が始まった当初、少しだけ日記のようなものを書いていたのだけれど、その時には「コリーナの丘」という絵物語というのか、絵本というのか、そういう物語(確か2021年に下書きを終えてある状態の物)の清書というか、本制作にするか、「プロトコル150」というSFの物語(漫画なのか小説なのかも決まっていない)の制作をするか色々検討していたけれど、結局、選ばれたのは「うみのいえ」だった。まぁ、それは、、きっと庭文庫という場所で、季節は夏で、40時間で、みたいな要素が組み合わさって、何となくしっくりきたから、くらいの感じだと思う。もしかしたら、何か深層心理的な意味というのか、必然性のようなものもあるのかもしれない。でも結局のところはよくわからない。そういう風な、アイデアというのか、企画はなるべく携帯のメモ帳に書き残すようにしているのだけれど、もう、ちょっと、これを全部作品化することはできないんだろうなぁというあきらめの気分が自分の中で大きくなっていて、それは、つまり、僕の人生があまりにも短いということなのだけれど、それらが作品として、他の人が見たり読んだりできるようになるのは、書きながら思ったことは、それは時間と場所の条件次第なんだということだ。できるだけたくさんのアイデアを形にできたらいいなとは思う。雄太さんが文章で触れてくれていた未明のシリーズ、実はあれは僕の中では「未明の土地」「未明の人々」「未明の王国」という3部作のシリーズだ。土地と人々はある意味で初期のイメージスケッチ集のようなもので、それらが王国という形を持つ物語なのだけれど、何だか、それを制作する時間をうまく作ることが出来なくて、まだ形になっていないという状況なんですよね……。未明のシリーズの絵はたぶん今もすでに200枚か300枚くらいになっているので、あと、文章として、それを完成させたいなと思っているのだけれど、これはやっぱり、難しそうで、寝かせている状態になっているけれど、まぁ、この先5年か10年かくらいのあいだに形にする時間と場所に出くわすことになるのだろうな、という感じでまぁ気長に待っていてもらえたらなぁと思う。(一応、「ごたごた」という雑誌がそういう場にならなかなという実験だったのだけれど、何だかうまく行っていない)そういうシリーズというのか企画アイデアみたいなものが、現時点で100個は超えていて、短いものなら「うみのいえ」みたいに40時間とか50時間の時間を確保すれば完成できるけれど、長いものだと数カ月とかもしかしたら数年とかかかるんだろうなというものもあって、どれも自分にとって大切な何かをはらんでいると思うので作品化したいけれど、それをやるためにはやっぱり経済的な事柄が絡んできて、じゃあ果たして「うみのいえ」の制作に50時間かけたなら時給1000円×50で5万円の売り上げを作れるのか、みたいな話になってくるわけで、1冊1000円で50冊。まぁ、長い目で見れば行けそうでもある。そういうことが成り立つように頑張んなきゃいけないんだろうなぁとは思いつつ、でも、そうしたところで、やっぱり思いついたことの全部を実現することはできないわけで、何かの縁で作ることになった作品を大切に一つずつ完成させていくしかないのだろうなぁ、と思う。なんだか、話がどこに進んで行けばいいのか、見失ってしまったのだけれど、たぶんこの話は、そう。前回の展示の時にも来てくださった方とかに、絵の雰囲気が変わったね、と言われることに対する僕の違和感みたいなものにつながっていくのだろうなという気がする。確かに自分自身で見ても、自分の絵は変化している。僕が常に変化しているのだから当然だと思う。日によっても違うし、天気とか、体調とかによって絵は変わると思う。そういう意味での変化というのはたぶんある。数カ月単位とかで見たときに傾向とか、何を志向しているのかという違いも、たぶんある期間で区切ってみれば見えると思う。そういうのはたぶんある。でも、前と全然違うね、と言われるときの、違う、とか変化というのは何となく、そういうものとは違うようなことを指して言っているような気がするので、僕は違和感を覚える。だって例えば、今回の「森の底でまた会いましょう」というのは、元をたどれば14年前の文章なわけで、それを生と死の物語として読み直してアニメーション化したのが「森の底でまた会いましょう」なわけで、油絵からアニメーションに移行したというよりかは、僕の中ではそもそもどっちもあったのだという感覚だ。14年前に僕が文章を書いた時点でアニメーションのイメージがあったわけだし、何が先とか後とかいう話になると、よくわからない。実景と未明にしても、僕が高校生の頃に書いていたドローイングはむしろ未明に近いし、僕としてはやっぱり作品のシリーズというのは、展示をしたり、人に見せるために便宜的に作っている区分というのか、分類みたいなもので、本当はそれらを分けずに見てもらいたいというのか、それこそ、それぞれの「あいだ」みたいなものに本質があるんじゃないか、という風に思うし、そういう風に気長に見てもらえたら嬉しいな思う。だから、たぶん、次の展示でもまた全然違うねと言われるのだろうと思うのだけれど、それはなんといえばいいのか、僕という人間の色んな側面を僕がけっこう意識的に見せているだけという話なんだよな、と感じる。そう、それで、その話にたぶんこれは続く話なのだけれど、今、僕は家の裏手にある蔵を片付けていて、そこをアトリエ兼ギャラリーみたいなものとして使えるようにしたいと思っている。この文章を書いていて、気づいたことは、やっぱり、制作には時間と場所が大きな要因として働いていて、その二つをある程度、まとまった形で確保することができれば僕はたぶんもっと作品を形にしていけるということだ。そして、生み出される作品群を仕分けして、展示にしたり、本にしたりしているから、そしてそれらは順番に一つずつ見せていくしかないから、さっき描いたような僕の違和感につながっていく。たぶん人に見せることのできるアトリエ兼ギャラリーという場所を作ることは、そういうことを全部いっぺんに良い方向に導いてくれるのかもしれない。その場所は、たぶん僕が作るものの色々な側面ないまぜになって、未分類の、雑然というのか、混沌というのか、そういうものをそういうものとして見せられる場所になるんじゃないかなと思う。僕は日々、作品を作っていて、そういう状態を知っているから、展示という整理された空間で人が感じることとのあいだに何だかもやっとするのは当然なんだろう。これは「暮らしの実景」の終わりの頃に雄太さんに言われた「もっとうわーって感じでやっていいんじゃない?」という話にも通じることのような気がする。そういう場所を、次は作ってみたいなと思う。色々やってきた末に、場所を作るということがこうやって現実的な目標として見えてきたというのは、僕にとってはすごく嬉しいことだ。というのも、僕が物を作ることの根本にはたぶん建築というものがある。建築をやりたくって絵を描き始めたみたいなところもある。建築が扱うのも物と物のあいだの何もない部分、空間だ。これもあいだだ。20代のあいだに没頭して学んできたことにここへ来て回帰するというのはとても嬉しい。いい場所を作りたいなぁ。片づけはだいぶ片付いたのだけれど、どういう仕組みで誰に公開するのかとか、そういうなんて言うのか、事務的というのか、運用の形作りみたいなものをもう少し詰めて考えないといけないなとは思うけれど、でも、なんだか、今ならそういうことも上手いことまとめられるんじゃないかという気がしている。それは一瞬だけれどパン屋さんを庭文庫の下のお店でやったこととか、色んなイベントZINEを売ったりとか展示をしたことが経験として生きてきてくる気がするし、なんだか、なんていうんだろう、月並みな言い方になってしまうけれど、あー人生って無駄なことないんだなぁ、とかそういう風なことをしみじみと思う。そうそう、この文章のなかのどこかで書こうと思っていたことを書きたい。なんだか、文章が進んでいく方向に無軌道にというのだろうか、文章の流れに身を任せてどんどん書いていて、たぶんどこかでこのことについて書くタイミングがあったはずなのでけれど、それを逃してしまったので、こうやって付け足すみたいに書くのだけれど、それは海というものについてだ。これもやっぱり雄太さんが書いてくれたことに関連して書くのだけれど、これもまた、たぶんうまくすっきりとした言葉で書くことはできないだろうと思う。僕は昔、夜の街を歩くのが好きだった。岐阜に引っ越してきてからそういうことはないのだけれど、もっと前、千葉に住んでいたときとか、静岡に住んでいた時には、夜、ひとりで散歩していた。夜の繁華街、夜の住宅街、夜の川沿いの土手、夜の国道沿い、僕はいろんな夜を歩いた。埼玉県で生まれ育った僕にとって、海というのは何となく、夜の闇というものと近しい存在だ。それは自分が溶けていく先のようなもので、それは雄太さんが言うように母親の子宮の中の記憶というのか、そういうものや宇宙の感覚とも近い。ここ数年なのか、もっと前からなのか分からないけれど、僕の作るものの中にある一つのキーワードとしてそういうものへの溶解みたいなものがあると思う。溶ける感覚だ。たぶん岐阜に引っ越してくるまでの僕にとって、その感覚は夜の暗闇の中で感じていたものだったけれど、岐阜で暮らすようになってからはたぶん草刈の作業によって僕はそれを感じている。草原の中に建つ家の絵、あれは実は庭文庫の蔵を描いた絵だ。庭文庫の草を刈りながら、見た蔵を絵にしたものだ。全身に汗をびっしょりかいて草を刈るということ、Tシャツが濡れ、パンツが濡れ、作業ズボンまで濡れ、とにかく全身が汗で濡れた状態で自然と向き合う時間というのが僕は結構好きで、それはやっぱり、海的なものに浸る感覚にかなり近い。(海も汗もどちらもしょっぱい)。闇の中を歩く感覚に近い。その時間の中で、僕は自分というものが自然の中に溶けだしているという風に感じる。だから何なのか、という話になるとよく分からないのだけれど、やっぱりこれはもっと突き詰めて考えると、僕がすごく恐れていて、たぶんものを作る一番根源的な動機である「死」というものにつながっているのだろうと思う。なんだか、そのあたりのことは、たぶん、予感として、僕は文章を書いたり、言葉で考えるのではなくて、たぶん、絵なのか、漫画なのか、アニメーションなのか、小説なのか(小説は言葉か……)分からないけれど、そういう遠回り的な方法で探求していくことになるんだろうと思う。草刈というのは、何か、僕にとってひとつ、重要な仕事なのかもしれない。草刈のいいところは、やればやっただけ、確実に風景がきれいになることだ、そして、どんなに頑張ってきれいにしても、しばらくしたら雑草はまた生えてくるところだ。数カ月、1年もすればすっかり元通りになる。この感覚にたぶん糸口があるだろうと思う。人間というものの無力さというのか、生とか死とか、そういうものの大したことのなさというのか、よくわからないけれど、そいういうものだ。そういうものを今はまだ、すんなりとは受け入れられない。携帯のメモ帳に入っている作りたいものを全部つくるまで、死にたくないなと思ってしまう。やりたいことも行きたいところもまだまだいっぱいある。それをやりきる前に確実に死んでしまうということを受け入れるのがやっぱり難しい。あと、そう、これについても書きたいと思っていたのは。山田君がギターを弾いてくれた日のことだ、山田君のギターに合わせて描く絵、今回は「うみのいえ」の着彩作業だったけれど、もしそういう機会があれば、本当にその音楽に合わせてというのか、音楽から受け取ったものを絵にするということもやってみたいなと思う。そうそう、34年間生きてきて、たぶん初めてのことなのだけれど、音楽というものを聴くようになった。しかもジャンルはヒップホップだ。あんまし僕という人のイメージに似合わないように思われるのかもしれないけれど、でも、それに惹かれ、共鳴する感覚が僕の中には確かにある。特によく聞いているのがフリースタイルのラップだ。口げんかのようなラップバトルはあんまし好きじゃないけれど、即興で、その時に感じていることを音楽に乗せて吐き出していくことの、なんていうかリアルさみたいなものが僕にはたまらなく魅力的に思える。彼らは音楽の中に溶けているように僕には見える。ラップが僕にできるかどうか、というとあんましよくわからないけれど、そういうスタンスというのか、マインドというのか、で絵を描いていきたいなと思う。こんな風な文章の書き方をしているのもたぶんその影響だ。まぁ、そもそも「暮らしの実景」の中の「どこから読んでもどこで終えても」も全くおんなじだから、たぶんそういうものに惹かれる性質はそもそも僕の中にあったものなんだろうと思う。「絵と画のあいだ」で展示した油絵は全部、ヒップホップの音楽を聴きながら描いたものだ。ヒップホップっていうものがどういうものなのかとか、僕には良く分かっていないけれど、これからいろいろ見たり聴いたりしたい。また、ひとつ世界が広がったような気がする。まだまだやってみたいことがたくさんある。そしてそれが日々増えていくから本当に困ってしまう。長生きしたいなぁ、いっぱい作品をつくりたいなぁと思いながら、なんだかとりとめのない文章になってしまったけれど、今回の展示「絵と画のあいだ」の振り返りはおしまいにしたいと思う。会場に来てくださった皆さま、色々な感想コメントや批評をしてくださった皆さま、作品を購入してくださった皆さま、庭文庫の3人、その他、すべての皆さま、本当にありがとうございました。では、またいつかどこかで!たぶんすごく読みにくいと思うし、色々直した方がよいところはあると思うけれど、この文章はこのまま完成にして公開してしまおうと思います。2025.08.05JUNOTA
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
JUNOTAは岐阜県の恵那市で絵を描いたり、文章を書いたり、木工をしたり、お米を育てたりしながら暮らしています。制作したものはZINE(自主制作の小冊子)という形でまとめて発表しています。こちらの記事にこれまでの制作物をまとめていますので、良かったらご覧くださいませ~。
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