ひさびさに夜中に目覚める。いや、このごろ毎日深夜に目が覚めるのだけれど、いつも無理やりに目を閉じてもう一度寝ていた。今日はなんとなく起きてみて、久しぶりに文章を書き始めてみる。
今日は午前中にゆず組合の仕事をしてきた。先週に僕とMとで今シーズンに仕入れたゆず玉の量を集計して、各生産者さんにいくら支払えばいいかを計算したので今日はそのお金を封筒に入れていく作業をした。間違えないように慎重にやったのでミスなく終えられた、と思う。その後、Aさんの家に行き牛乳やら野菜やらお味噌やらをもらう。家に帰ってすぐに牛乳寒天を作った。その後庭文庫に行って、本棚作りを手伝った。11月の末から一ヶ月間、僕はなるべく長い時間庭文庫で過ごしたいなと思って、お店の廊下の片隅にスペースを作って色々書いたり描いたりしながら過ごしている。展示のことを少し書いてみようか。絵や本の売れ行き的には、なんとなく、企画の段階で考えていたのと大きく外れてはいないような気がする。絵の売れ行きはやや鈍いけれど、まぁ、そんなもんかとも思う。アンケートを取ったり、次回の展示のときに案内を出せるように連絡先を集めたいなぁなんてことを思っていたのだけれど、そのあたりがぜんぜん上手くいっていない。今のところ、絵か本を買ってくれた人にしか案内は出せないので、たぶん機会損失的なものは結構大きい。次回の展示では来てくれた人が何か文章や絵をかくスペースを設けてみたい。庭文庫で本棚作りを手伝って、その後、S家、M家とわれわれで忘年会をした。鍋を食べ、麻婆ラーメンなるものを食べた。味噌ラーメンのようで美味しかった。
最近は「未明の人々」のシリーズと「KIND OF BLUE」、依頼された風景画、をポツリポツリと並行して進めている。4月に動物の絵の展示にも誘われたのでその制作もぼちぼち始めたいところだ。でも、何事も一つ一つやらないといけないと思うので、まずは「未明の人々」からかなと思っている。「KIND OF BLUE」は頭の片隅においておいて発酵させておくことにする。いまもそのアルバムを聴きながらこの文章を書いているけれど、おそらく今後数年の僕のBGMはこれになるだろう。アイデアばかりが増えて、どうにもそれを消化していけない気がしている。数日前に宮崎駿のドキュメンタリーをみた。なんか僕としては痛々しくて見ているのがつらかった。数日間、ちょっとした衝撃で涙がとまらなくなってしまった。人生の短さについて考える。僕が絵を描くのは何故なのか、文章を書くのは何故なのか、ぼんやりと分かったような気がする。僕の制作の背後にあるもの、それはきっと、死に関するものなんだと思う。死への恐怖なのか、喪失への恐怖なのか、よく分からないけれど、たぶんそういうものなんだと思う。
展示期間中、僕の描いた風景画について「懐かしい感じがする」というコメントを何人かの人からもらった。懐かしさというのも、喪失と関連している。懐かしいものというのは、もう既に失われたものだ。失われたものに対する執着なのか、それを愛でる心情なのか分からないけれどそういうものが絵に表れているのかも知れない。今回、在廊中に廊下の片隅で僕の好きな本の紹介画を描いている。並べてみて感じるのはそこに共通して流れている喪失の気配だ。死の気配というよりも、喪失の気配といったほうがなんとなくしっくりくる。失われていくもの、失われてしまったものについての作品が多い。過去を懐かしむというのはどういう行為なんだろうか。メメントモリ、今を生きよというけれど、今を生きる人間にとって、過去はどんな存在なんだろうか。宮崎駿はある意味で過去を生きているように見えた。過去の幸せだった頃の記憶を思い出しながら、もう絶対に戻ってこないあの日々のことを思いながらすごしている人は幸福なんだろうか、不幸なんだろうか。
久しぶりに文章を書いたので、このごろ考えていることをパラパラとかく感じになった。2024年はまた文章を書く時間を作るようにしたい。
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