笠置での暮らしを絵と文章で表現するような本を作ろうとしていて、このごろ毎日数時間パソコンに向かい、ノートを広げ、携帯のメモ帳を開いて、文章を書いている。そのせいで、普段の日記がなかなか書けていない。書くことは思考を前進させることだと思う。つい今しがた、その本の冒頭に乗せる文章と格闘していて、なんでかわからないけれど何の脈絡もなく、「笑い」というものに思考が移った。ちなみにほんのタイトルは「生活実景――日々の暮らしはアートになるの?」という風にしようと思っている。そうそう、今この文章を書いていて、思い出したけれど、思考が「笑い」に移ったのは、どうして、僕はこんなふうに少し砕けたような文章が好きなのだろうか、ということを考えたことがきっかけだった。くだけた、というのは、僕なりに人を面白がらせようとしている、つまり笑わせようとしているということなのでけれど、(実際にどのくらい楽しませられているかということはおいておいて笑)それがどうしてかということを僕の頭の中にいるもう一人の僕が問いかけてきたのだ。それに対する答えとして、僕は「笑いはすべての感情を包含できるから」という風な解答をした。笑いは悲しみよりも、怒りよりも、喜びよりも大きなものだと僕は思う。笑いと悲しみは相反するものだというのが、一般的な考えかもしれないけれど、僕はそうではないように思う。笑いの中に悲しみを見出すことも、場合によっては可能なんじゃないか、逆は難しいように思う。それはピカソのやっていることに通じるように思う。彼の絵は、相反する二つの対立すると思われる概念が一枚の絵の中に、一マインおスケッチの中に同時に固定することに成功している。絵の中の人物は笑いながら泣き、生きながら死に、幸福でありながら絶望している。そういういろんな感情がないまぜになったものに僕は惹かれる。そういうことを考えたときに、僕にとっては「笑い」というものがすべてを包むことができる存在として大事なものという風に感じる。もうだいぶ眠たくて、自分で何を書いているかわからないけれど、久々に日記を書く代わりにこういう文章がのこっていても いいんじゃないかと思って書いた。もう寝ることにする。
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